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徳川四天王 井伊直政

アレサンドロです。

彦根城博物館所蔵品

本多平八郎忠勝に続いて

徳川四天王」の中でも

最年少でありながら

家康からの信頼ナンバーワンであり

随一の出世頭、

井伊直政を紹介します。

 

幼名は虎松。
井伊氏は先祖代々、
井伊谷国人領主でした。


天正3年(1575年)、
家康に見出され、
井伊氏に復することを
許された虎松は、
名を井伊万千代と改めます。

さらに
旧領である井伊谷の領有を認められ、
家康の小姓として
取り立てられました。

天正10年(1582年)、
22歳で元服し直政と名乗ります。
また、本能寺の変では家康の
「伊賀越え」に従い、
堺から三河国に帰還しています。

武田氏の旧領を併呑すると、
武田家の旧臣達を多数配下に納め
一部隊を編成、
旗本先手役の侍大将になります。

 

関ヶ原の戦い終盤では
島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、
更に退却する島津軍をて追撃する。

遂に義弘の目前まで迫り、
義弘討ち取りの命を下した際に、
島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、
落馬してしまう。

戦後処理などの功績により
石田三成の旧領である
近江国佐和山18万石を与えられ、
滋賀県彦根市
彦根藩の発展の礎を築きます。

彦根城 滋賀県観光情報[公式観光サイト]より

彦根城が築城されると
同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、
新たに彦根藩(30万石)が置かれます。
それ以来、彦根藩は明治時代になるまで
井伊氏の藩として栄えることになります。

現在、彦根市は、ゆるキャラ
「彦にゃん」で盛り上がっています。

https://www.city.hikone.lg.jp/より

 

井伊の赤備え
武田氏滅亡後、
武田遺臣は井伊直政に預けられます。
武田の赤備えを支えた
山県隊の旧臣達も直政に付けられました。

これにあやかって直政も
自分の部隊を赤備えとして
編成しています。

井伊の赤備えは、
小牧・長久手の戦い
先鋒を務めて奮戦し、
直正は「井伊の赤鬼」と呼ばれ
恐れられる存在でした。

 

【直正の死因】
井伊直政は、関ヶ原の戦い
鉄砲に撃たれたことによる傷で
死亡しました。

関ヶ原の戦いから約1年半後に
死亡していることから感染症による
死亡が有力です。
死因はガス壊疽であると考えられます。


関ヶ原の戦いにおいて鉄砲で撃たれ、
毒素が血中に流入しました。
弾丸に入った毒素が周囲の組織を壊死させ、
血行障害による酸素不足が起こりました。

やがて、敗血症を起こし、
多臓器不全で直政は死亡した
と言われています。