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徳川四天王 本多平八郎忠勝

アレサンドロです。

良玄寺所蔵品

大河ドラマ「どうする家康」の

第1回の総合テレビの放送に颯爽と登場した
徳川四天王の一人 本多忠勝を紹介します。

今回の「どうする家康」では、

山田裕貴さんが
本多忠勝を演じています。


本多忠勝は、安祥松平家
最古参の安祥譜代の本多氏で、
本多忠高の長男として
天文17年(1548年)に生まれました。

幼い頃から徳川家康に仕え、
永禄3年(1560年)13歳の時に
桶狭間の戦いの前哨戦である
大高城兵糧入れで初陣しています。

永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、

多くの本多一族が敵となる中で、
一向宗浄土真宗)から浄土宗に改宗して
家康側に残り武功を挙げました。

永禄9年(1566年)には
19歳にして旗本先手役に抜擢されて、
与力54騎を与えられています。

以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、
旗本部隊の将として活躍しました。

単騎で朝倉軍に正面から突入した
姉川の戦い」や
武田軍から徳川家を守った
「一言坂の戦い」などで

武功を上げた本多忠勝の強さは

まさに別格。

生涯で57回もの戦闘に
参加したにもかかわらず、
傷ひとつ負わなかったという
逸話があります。

時代は少し進んで、
天正10年(1582年)、
本能寺の変が起きたとき、
家康は忠勝らとともに

堺に滞在していたが、
「伊賀越え」を行い、

生きて三河に戻ってきました。

天正18年(1590年)、
家康が関東に移封されると
上総国夷隅郡大多喜に榊原康政と共に、

(千葉県夷隅郡大多喜町
家臣団中第2位の10万石
(1位は井伊直政の12万石)を
与えられる。

江戸から遠くなっているのは、
「譜代の将は敵が

 攻めてくる国境に配置する」
との、家康の配置方針だそうです。


関ヶ原の戦い後は、

伊勢国国桑名10万石に移っている。

三重県桑名市
忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、
城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、
東海道宿場の整備を行うなど
桑名藩創設の名君と仰がれています。

晩年は、戦乱の収束により
本多正純などの若く文治に優れた者が
台頭ししてくると、
慶長9年(1604年)頃から
病にかかるようになり、
江戸幕府の中枢からは

遠ざかっていきます。

忠勝は臨終に際して
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、
 事の難に臨みて退かず。
 主君と枕を並べて討死を遂げ、
 忠節を守るを指して侍という」
という言葉を遺している。

 

真田丸」で本多忠勝を演じる藤岡弘、を直撃! (C)NHK

NHK大河ドラマ真田丸」では、

藤岡弘、が豪快な役を
演じていました。
山田裕貴
どのように演じていくか
楽しみです。

https://www.instagram.com/p/CfeA7gdPFIh/