アレサンドロです。
米沢藩の第9代藩主で、
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけをつくり、
「江戸時代屈指の名君」として知られる上杉鷹山。
上杉 鷹山は、江戸時代中期の
諱は治憲(はるのり)、
藩主隠居後は鷹山を号としています。
米沢藩政改革を行った
江戸時代の名君として知られています。
1751年9月9日、
日向高鍋藩主秋月種美の次男として
高鍋藩江戸藩邸で生まれる。
1759年、男子のなかった上杉重定の娘幸姫の
婿養子として縁組され,
1760年、米沢藩主上杉重定の養嗣子となる。
1763年,折衷学者細井平洲を
学問の師と仰ぎ、1766年に元服
治憲と改名,1767年に家督を継ぐ。
上杉家は、石高が15万石(実高は約30万石)。
18世紀中頃には借金がが20万両。
(現代の通貨に換算して
約150億から200億円)
出羽国米沢に移っても,
会津120万石時代の家臣団6千人を
召し放つことをほぼせず、
他藩とは比較にならないほど
人口に占める家臣の割合が高かった。
そのため、人件費だけでも
藩財政に深刻な負担を与えていた。
【改革の火だね】
新藩主に就任した治憲は、
竹俣当綱や莅戸善政を重用し、
先代任命の家老らと厳しく対立しながら
藩政改革を進めた。
「七家騒動(しちけそうどう)」
安永2年6月27日(1773年8月15日)に
起こったお家騒動。
藩主の改革政策に反対する藩の重役7人が、
改革の中止と改革を推進する
奉行の竹俣当綱一派の罷免を治憲に
強訴する事件が勃発。
7人には、切腹及び改易、
隠居及び閉門または蟄居、
石高削減等の処分が下された。
後に藁科が斬首並びに士分剥奪となる。
しかし,須田家と芋川家が
侍組平侍に降格されたものの、
共に家の再興が認められ、
千坂や色部らも赦免されている。
【籍田の礼】
中国において,勧農と豊饒を
祈願するための農耕儀礼です。
治憲や家臣一同が神社に参拝したのち、
ある村の荒れた田の土に対して、
数回ずつ鍬入れするものでした。
農業の大切さを領民に知らせ、
農業を盛んにしたいと思う
治憲のねらいがありました。
4代藩主綱憲が創設し、
閉鎖された学問所を
藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって
(山形県立米沢興譲館高等学校のルーツ)再興させ、
藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
竹俣 当綱は改革の主導者であったが、
専制的で取り巻きをかかえ、
公私混同な振る舞いも多かった。
天明2年(1782年)に
藩祖上杉謙信の忌日に
酒宴をしていたという不敬罪など
11か条の不行跡を理由に
隠居及び押込を命じられる。
「伝国の辞」は,
(でんこくのじ)は、
鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に
申し渡した、3条からなる藩主としての
心得です。
- 一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
- 一、民(領民)は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
- 一、国(藩)・民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
- この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。
明治以降、鷹山は修身の教科書で
数多く取り上げられ、
内村鑑三が海外向けの日本人論として
「代表的日本人」に鷹山の生涯を
紹介しています。
ジョン・F・ケネディが
第35代アメリカ合衆国大統領に
就任した際に、日本の記者団に
「日本でいちばん尊敬する人物」と聞かれ,
「上杉鷹山の名前を挙げた。」という
逸話があります。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は,
武田信玄の名言
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」を
模範にしたもの。
童門冬二による「小説 上杉鷹山」は,
単行本として出版される以前、
約1年にわたって「山形新聞」に
連載されました。
1927年〈昭和2年〉生まれの
童門冬二は,出撃しないまま終戦を迎え,
東京都に入庁しました。
美濃部亮吉東京都知事の
スピーチライターとして
活躍した後,
1960年には「暗い川が手を叩く」で
第43回芥川賞候補となっています。
東京都在籍中に蓄積した
人間管理と組織の実学を
歴史の中に再確認し、
小説・ノンフィクション作家として
新境地を拓いています。